民主主義に「根回し」は不要か
人間は、自分が思っているほど理性的ではないし、公共的意識も高くない
ほとんどの人間は私的領域における「我がままな自分」と公的領域における「よそ行きの自分」を使い分けて生きている。そうと分かっていても、やはり、「根回し」のような不透明なことはやめて、みんなが本音を言えばいい、洗いざらい本音を言い合うことで、集合知が生まれてくるのではないか、と考える人はいるだろう。
『一般意志二・〇』(二〇一一)を執筆した当時の東浩紀氏のように、ネット上のビッグデータを活用して、みんなの“本音”を集計することで、社会にとって最も適切な解を導き出せると主張する人もいるだろう。
この問題について、思想史的に先駆的な議論をしたのがルソー(一七一二―七八)である。ルソーは『社会契約論』(一七六二)で、人々の特殊(私的)意志の総計あるいは平均にすぎない「全体意志(みんなの意志)」と、その団体の存在目的に即した公的性格を持つ「一般意志」を区別したことで知られている。
例えば、大学の私の授業で、その日、出席している学生全員が今日はダルくて休講にしてほしいと本音で思っているとする。私も本音でそう感じているとする。だから、授業をやったふりをして、全員グルになってずる休みをしよう、ということになるのが「全体意志」である。それに対して、大学の存在目的に即してどうすべきか、公的な視点からの意見を求められたら、誰も(正気でいる限り)ズル休みすべき、とは言わないあろう。それが「一般意志」である。
ただ、その国家の基本方針を憲法や、民法や刑法のような基本法の形で制定しようという時には、何が国家にとって正しいのか、みんなの公的意見が一致するということは難しいだろう。そこでルソーは、とにかく全員に自分が正しいと思うことを、「根回し」なしに言わせることを考える。
「全体意志と一般意志のあいだには、時にはかなり相違があるものである。後者は、共通の利益だけをこころがける。前者は、私の利益をこころがける。それは、特殊意志の総和であるにすぎない。しかし、これらの特殊意志から、相殺しあう過不足をのぞくと、相違の総和として、一般意志がのこることになる。
(…)
人民が十分に情報をもって審議するとき、もし市民がお互いに意志を少しも伝えあわないなら[徒党をくむなどのことがなければ]、わずかの相違がたくさん集まって、つねに一般意志が結果し、その決議はつねによいものであるだろう。しかし、徒党、部分的団体が、大きい団体を犠牲にしてつくられるならば、これらの団体の各ゝの意志は、その成員に関しては一般的で、国家に関しては特殊的なものになる」(桑原武夫・前川貞次郎訳『社会契約論』岩波文庫、四七頁)
ここでルソーが「お互いに意志を少しも伝えあわない」と言っているのは、グループ(徒党)内での事前の意見集約、すなわち「根回し」をしないということである。大きなグループ(利益団体)を作ってその中で「根回し」をすると、他の人たちを犠牲にして、そのグループに属するメンバーだけ得するような偏った意見が形成される。個々のメンバーは、国家全体の公共性を念頭においた独自の意見を持っていたとしても、「根回し」が進む内に、それが自分自身の意見だと思い込むことになりがちだ。農協とか医師会、商工会議所、労働組合のようなものを念頭におけばいいだろう。
ルソーは「根回し」を一切なくして、みんなの意見を全てオープンにして議論すれば、各人の(公共性を志向する)意見が「一般意志」へと収斂していくと考えたのである。確かに正論だが、問題は、気ままな私生活を送っている普通の人たちが、我がままや先入観による思い付きではなく、国家(あるいは公共的政治体)全体にとっての「善」を意識した意見をきちんと表明できるのか、ということである。
人間は、自分が思っているほど理性的ではないし、公共的意識も高くない。南青山の児童相談所建設問題では、地価を気にする“セレブ”たちを、口汚く罵る匿名の“ネット論客”たちがたくさんいたが、彼らが日本の公共意識を代表して適切な意見を言っていたと思う人は、(本人たち以外)ほとんどいないだろう。